画廊のとなり

画廊のとなりに住んでいる僕が、知りたいこと、知っておどろいたこと、知ってることをいろいろまとめていくブログ。

あなたの正しさの物差しは何を基準にしていますか?(NHKのJK貧困報道に寄せて)

最近、寛容さという言葉が気になっている。

 

f:id:minisorari:20160821142950p:plain

 

最近はNHKの報道したJKが貧困かそうじゃないかとかがホットらしい。

 

ネット上の良識のある人々のふるう拳は硬い

あっという間にネット上のあっているか、間違っているかわからないことを元にシロクロつけてしまって、あっという間に個人情報を晒しあげる。

自宅前の写真を公開したり、もしかしたら見れんじゃね?といった感じで現場に行ってしまっていたり、そういうことをされて壊れる人かもしれない、というのは頭を掠めないのだろうか。

 

いまは不寛容な社会

なんてことを思っていると、頭に「いまの社会は不寛容だ」という言葉が浮き上がってきた。朝井リョウが直木賞受賞後第一作就活に関して「何者」という小説を書いたときに受けたインタビューを思い出していた。

 

gendai.ismedia.jp

 

最近の炎上は法が裁くでもないような小さなことを取り出して大きくしているように思えてしまっていて、悪口でもなんでもなく、この人たちは人を許せないんだろうか、許してもらったことはなんだろうか、と思ってしまう。

そして、人はいつの間に人を裁けるほど偉くなったのか、人が裁けないから法で裁くのではないのか(ちなみに「何者」とはなんの関係もない)。

 

明日は我が身と許せないのか

いつから人を断罪しても「ただの言葉じゃん」と言葉の先の人を思いやらなくなったのだろうか、Twitterや掲示板サイトへの書き込みはもう現実と結びつきを強くしすぎてしまったことに気付いていないのか。

 

誰かがかいたバッシングはもうみんなの手元のデバイスで見れるようになった。

誰かが書いた愚痴は国会で取り上げられるようになった。

 

それはつまり、あなたの書いたことは手元から離れた瞬間、誰でも転載出来るし、あなたが望まなくても広がっていく、あなたはしていないかもしれないけど、誰かが批判の対象の人間にDMでそれを転送するかもしれない(そして傷つくかもしれない)。

 

それでも言葉は止まらない。

なにが言いたいのかというと、多くの人によってあなたの意図は曲がってしまうかもしれないということだ。

ネットの素晴らしさは低コストで自分の考えを開示できるところだ、逆にネットの怖いところは誤解されてもとまらないのだ。

宛先が違くても心無い言葉は誰にでも刺さる。知らない人を傷つける。それでも怖くないのか?

そんなこと言ったらなにも言えないではないか、そういう人もいるかもしれない、でも、そうまでして発信すべき内容か?僕は不思議でしょうがない。

 

 

と、ここまで書いて思ったが、寛容な人はそもそも記事(話題)にもしないだろうからサイレントマジョリティーだと思えばいいような気もしてきた。不思議だな。

 

おしまい。